2008年9月29日月曜日

アナロジー

訳すと「類推」

数学や科学(工学)の用語が,人間や社会に対して使われることがある.
「ベクトル」「最大公約数」
なんてのが今思いついた.
「人間はアナログ・ディジタルのどっちか」という書き込みを見かけたことがある.

ゲーデルの「不完全性定理」なんかは人間の理性の限界のアナロジーに使われることがある.

数学や科学の知識のある者にとって,そういったアナロジーは「ふーん」とは思うが,どうでもいいこと.
ベクトルとは,「和と数倍ができる集合の要素」正確に言うと
「集合Vの元x,yと体Kの集合の元aについて,x+y∈V,ax∈V を満たすVの元のこと」(体Kとは加減乗除の定義された集合)
であり,それ以上でもそれ以下でもない.それを「方向」と類推するのは高校数学の「教育的導入」場面で「矢印」を使うからに過ぎない.

しばしば,「皆さんの意見の最大公約数を・・・」という言い方がある.最大公約数とは
「公約数のうち最大の数」
という意味しかない.数(特に整数)ではない「意見」に公約数など定義できないのだ.言いたいことはなんとなく分かるが,まだ「最小公倍数」のほうがマッチしているような気がする.
まぁ「最大」という語感が「最もたくさんの人の共通の意見」というアナロジーなのだろう.

人間はアナログかディジタルか?
という問い自体が,ディジタル的と思う.
「アナログ・ディジタル」は現象の捉え方に過ぎない.それでヒトなり自然を分類すること自体がディジタル的.
つまり,男女,左右,善悪,夫婦,南北,正邪,長短,大小,高低,貧富,・・・など対になる2択でヒトを捉えること事態がディジタル的だと思う.
ディジタルは離散量,アナログは連続量.これ以上でもこれ以下でもない.これを人間に対して何らかのアナロジーを評すること自体に無理があると思うのだ.
人間の気持ちや動きはアナログだと思うが,発する言語はどう考えてディジタルである.文字になるならディジタルだから.つまりアナログな感情をディジタル表現するのが言語,アナログ表現は音楽や絵画など.
もちろん,受け取る人間の感情がアナログだから,ディジタルの言語からアナログの感情を類推するわけだが(つまり文学).
要するにアナ・ディジは現象の一面に過ぎないということ.男女も貧富もそうであるように.

ヒトは分類によって「分かった気がする」のである.その点,2択は最も単純に分かった気になれる.
「男だから」「金持ちだから」という具合に.
しかし,何らかの決断をするときにはどうしてもどこかにすがる必要があるし,最終的に2択にあることもありうる.そうしなければ世の中が動かないのは事実で悪いことではなかろう.したがって,ここではそこまでは議論しない.

世の中が何次元かという議論がある.
空間3次元に時間軸を加えた4次元時空である・・・とか.
これも,自然の捉え方のひとつに過ぎない.

自分は自然はの次元は無限だと思っている.
そこから分かりやすいものを3つなり4つなり取り出しているに過ぎない.

ゲーデルの「不完全性定理」の類推は哲学オタク好み.
「自然数を含む無矛盾(consistent)な体系の無矛盾性の証明は,体系内には存在しない.」
これが「無矛盾の証明はできない」という勝手な哲学的類推となり,なんだか人間の理性の限界を証明した気分になれるわけだ.
もちろんここでいう「証明」にも厳格な定義(有限の立場)があるし,この定理は純粋に自然数論を含む論理体系に関する定理であって,人間の高度な論理概念を規定するものでないのに,結果の文だけ見て,勝手な類推が多くて笑える.
定理の証明を見ればわかるが,これは純粋に数学の問題で,これで理性に限界があることが示されたわけではない.実際「証明」の定義を変えることにより,自然数を含む体系の無矛盾性の証明はできている.(G.Gentzen 1936)

数学なり,科学,工学の用語を,人間へのアナロジーに使うのも結構だが,それで用語だけが一人歩きして,逆に科学が誤解(科学批判)されている部分は多いなぁ.科学を使うのは人間に過ぎず,科学に罪はない.
科学を使って罪を犯す人間が悪なのであって,それに利用される科学は悪ではない.

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